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オルドスについて

オルドス市
 
オルドス 砂漠
 モンゴルの部族名、また地名。15世紀なかば、中国名で河套(かとう)(黄河の曲がった所の意)とよばれる地域にモンゴル民族が進出し、ここにチンギス・ハンの廟(びょう)(オルドとはモンゴル語で宮殿を意味する)を建てたことからその名がついた。オルドスは東、西、北を黄河に、南を長城に囲まれた地域で、中国の内モンゴル自治区の西部に位置する。全体が波状の地形をなし、標高1000~1300メートルの高原で、面積は約17万平方キロメートル。中央部はやや高く、岩石が露出している。乾燥地帯で、降水量は年平均200~500ミリメートルである。北東部から南西部にかけてステップが広がっているが、砂漠も多い。とくに北西部の庫布斉(クズープチ)砂漠、南部の毛烏素(モーウス)砂漠は規模が大きい。現在オルドスには、モンゴル族のほかに漢族、回族が居住し、牧畜が主たる産業であるが、また各地で農耕も行われている。 
 
 
オルドス市
オルドス部の名は15世紀後半から史書にみられるが、ダヤン・ハンのモンゴル統一後、いわゆる「六万戸」(左翼、右翼各3万戸)の一つに数えられ、その右翼部に所属した。16世紀前半、ダヤン・ハンの第3子バルス・ボラトが右翼部長(ジノン)となったが、その死後、オルドス部はバルス・ボラトの長子、グンビリク・メルゲン・ジノンに受け継がれた。モンゴルのハンはチンギス・ハンの廟の前で即位式をあげたので、オルドスは内モンゴルの文化の中心の一つともなった。1634年チャハル部のリンダン・ハンが青海地方で病死すると、オルドス部は他の内モンゴルの諸部とともに清(しん)朝に帰属した。オルドス部は初め6旗(ホシュン)に編成され、伊克昭(イフジュ)(大きな廟の意)盟の名を得た。その後1736年に1旗が増え、全部で7旗となり、清末に至った。現在は内モンゴル自治区のイフジュ盟となり、そのなかは1市、7旗に分かれている。また盟公署は東勝市に置かれている。